最近ドルアーガの話ばかりなので、タラタラ時事ネタなどを。
若い世代の凶悪な犯罪が起きると、犯人に近い世代の人が、「犯人の気持ちが『わかる』」的な発言をすることがある。街頭インタビューやらネットやらで。
で、それを見た良識ある大人は気味悪がったり世を嘆いたりする。
この「わかる」という言葉が曲者で、
発言してる人は「犯人の動機なら想像できる」という程度の意味で使ってる。
ところが部外者や年長者は、「わかる」と聞いて「犯人に共感できる」という意味に解釈しがちなのではないかなあ、と。
「想像できる」のと「共感できる」のとはまったく別物なのに。
こんな調子で、言葉というのはまったく信用できんツールだよなあ、とたまに思ったりします。
※コメントに返事はできません。ご了承ください。
ただの知ったかぶりが、多いだけじゃないんですか。若い人もそうでない人も。
ソクラテスの「無知の知」とか、ユダヤの教え、「聞いて、聞け、そして、わかろうとするな。見て、見よ、そして、知ろうとするな」に当たるかと思います。
言葉はただの音の組み合わせですから、使う人が問われることではないでしょうか。
私もそう思います。
言葉の表面だけを見ていくと、勘違いが勘違いを重ねておかしなことになっていきそうな・・・。
言葉に頼り切ってはだめですね。
ところで、「せまるニックオブタイム」5回読みました。夫と息子も2回ずつ。
ということで、本がだいぶボロボロ。
なので、次が読みたいわけです。
これは言葉のまま受け取ってください^^
お待ちしております☆